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2006年10月17日
三浦小平二先生が逝去されていた・・・。
ショックだ・・・。
夕方、実家からの電話の中で母から聞いたのだが、陶芸家の三浦小平二先生が、去る10月3日に亡くなられていた。
2週間も経つのに、全然知らなかった・・・。ちょうど鈴鹿に行く準備をしていた頃か・・・。
三浦小平二氏(みうら・こへいじ=陶芸家、人間国宝)3日午前1時56分、急性心筋こうそくのため東京都国立市東4の2の22の自宅で死去、73歳。新潟県出身。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会を11月15日午後2時から東京都千代田区紀尾井町4の1、ホテルニューオータニで開く。喪主は妻竹子(たけこ)さん。
新潟県相川町(現佐渡市)の無名異焼(むみょういやき)の窯元に生まれた。東京芸大卒。佐渡の朱泥土に青磁の上薬をかける技法を開拓、青磁に色絵を組み合わせ、新たな表現をひらいた。東京芸大、文星芸大で教え、東京芸大名誉教授。96年に紫綬褒章受章、97年に重要無形文化財保持者(人間国宝)となった。
人間国宝ではあるものの、それほどこの陶芸家をご存知の方はいらっしゃらないだろう。
しかし、僕にとってはいまの仕事の基礎を作ってくださったのがこの方だ、とも言えるのであり、そういう意味でショックはとても大きい。
そう言いつつ(人が亡くなるとよくあることではあるが)、最後にお会いしたのはたしか10年以上も前、細かい日付などとうに忘れるほどの昔なのだ。赤坂を歩いているときに偶然、個展を開かれている画廊の前を通りかかり、なにげなく入ってみたら、先生が会場にいらっしゃったのだ。
もう少しお会いしておけばよかったと悔やまれてならない。こんなことになるなら、6月に日本橋三越で開催されていた個展に足を運んでおくんだった・・・と言っても後の祭り。
小平二先生に初めてお会いしたのは、僕が幼稚園の時だから、もう30年以上、というか40年近く前と言った方がいい、はるか昔のことで、もちろん当時の細かいことは全然覚えてはいない。
小平二先生(正確にはその奥様の竹子園長先生)は国立市で「ママの森幼稚園」という幼稚園を開いていらっしゃる。僕はそこに入園していたのである。
実は、懐かしくて、mixiでその幼稚園のコミュニティを作ってしまったほどだ。
その幼稚園では、園児向けの絵画教室が盛んだった。
さきほども書いたように、数十年前のことだから細かいことはいっさい覚えていないが、生まれ持った絵心に磨きをかけてくれたのがその絵画教室であることは間違いない。
もともと、小さい頃からなんでも絵にしてしまう子だった。SFチックな物なんかも大好きで、アニメーションや人形劇のサンダーバードなんかを見ては、そこに出てくるマシンや宇宙船なんかを見事に再現するだけでなく、独自の宇宙船や飛行機などをデザインするのが好きだった。
いままたブームが再燃しているようであるが、レゴを組み立てるのも大好きで、しかも、それもまた見本を見てチマチマと組み立てているのではなく、なにも見ないで“すごいもの”(注:幼児としてはね)を組み立てて、大人を驚かせたりしていた。
まあ、絵心があるとかないとかそのほかいろいろな才能があるとかないとか、この前もあとも、過去の栄光を我ながら歯の浮くような言葉で書きますが、そこは先生のご逝去にあたり、先生に免じてお許しください。
特に、いまやっていること(僕のスキル、仕事ぶり)を知っている方々は大いに笑われるかもしれませんけど。
そこでは園児向けだけではなく、一般の子供向けの絵画教室も開かれており、(たぶん)そうした僕の才能に目を向けた両親が通い続けるように言ったのだろう。たしか小学校3,4年程度までそこに通っていた。
正直なところ、その頃は大好きだった野球をはじめとしたほかのことに興味があったため、通うのが苦痛でしょうがなかった。富士見台団地という幼稚園からは近いとは言えない場所に住んでいたこともあって(じゃあ、幼稚園時分はどうやって通っていたのかとも思うが)、めんどくさくて仕方なかった。
やめることにしたとき両親、特に母親はガッカリしたが、心は晴れやかだった。
しかし、あとから聞いて驚いたのは(まあ、たぶん母からの“又聞き”だから脚色があるかもしれないが)、やめると母が小平二先生かその当時の絵画教室の先生(若い先生)に告げると、どちらかから「この子は才能があるからもったいない。これからも指導したい。月謝はいらないから通い続けさせなさい」と言われた、ということだ。
この時は、さすがに子供心にも「そうなんだ。ちょっともったいなかったかな」と思ったのはよく覚えている。それでも復帰しようとは思わなかったわけだから、当時は絵にそれほど興味はなかったのだろう。
中学や高校に入っても、授業以外に美術の特別な教育は受けることはなかったが、それなりに絵の才能は発揮し続けた。
美術の授業での話ではないが、中学に入学して初めての地理の時間、「日本地図を描け」という課題が出された。
同級生の多くは、いわゆる昔の古地図のような、“雲のような”とでも言ったらいいか、ふにゃふにゃと適当な海岸線の地図でお茶を濁していたが、僕は伊能忠敬よろしく、リアス式海岸や九十九里浜の様子、その他さまざまな場所の地形的特色を見事に捉えた地図を短時間で書き上げ、地理の先生に心底驚かれた。もちろん、なにも見ないで描くのだ。
あまりの緻密さに教員室でも話題になったそうだ。きっと“観察眼”は人一倍優れていたのだろう。
中学当時は、他の教科もすべて抜群の成績だった僕は(注:再度言いますが、すべて過去の栄光)、“いい子ちゃん”だったこともあって親やクラス担任の言いなりに高校進学の勉強をして、見事に志望校(国高:東京都立国立高校)に入った。まあ、国立大学の付属高校などの超難関校は落ちたが。
ちなみに、中学の定期試験で音楽の87点“以外”すべて100点を取って“伝説となった”(笑)こともある。でも、その同じ試験でまんべんなく取ってまったく同点だったヤツがいたのには驚かされたが。ちなみのちなみに彼はその後、東京大学にアッサリ入ったらしい(爆)。彼は運動なんかが苦手ないわゆる“秀才”タイプだったんだが、僕はどっちかというといたずら・悪ふざけもよくしたからね(笑)。先生にはよく怒られていた。
運動と言えば、足も速かったし。過去の栄光の紹介ついでだが(笑)、運動会の花、最後の「学級対抗リレー」で、ビリでアンカーとしてバトンを受け取った僕は、そのあと前を走る全クラスのアンカーを“ゴボウ抜き”でトップでゴールイン、ということもあった。いや〜、青春だなぁ。
また、高校進学直前、都立高校入試にはかなりのウェイトとなる“内申書”の話で担任から、「おまえは国高に入るには十分過ぎるから、悪いけど他の人に“1”上げるよ」と言われたこともある。「5」を「4」に下げられたのだ(笑)。つまりホントはオール5だったのだ(過去の(ry)
まあ、きっとすげーイヤなヤツだったんだろうといまは思うが。女の子にはとんと持てなかったしね(爆)
国高では、芸術関連の授業は、美術・音楽・書道の3つに別れており、それぞれ好きな科目を選ぶことになっていた。
同級生の評価なんてアテにならないかもしれないが、僕が授業で描いてきた絵を見た書道選択のクラスメートは目を見張った様子で、「俺は美術を選択しなくて本当に良かったよ」と言ったものだ。
その当時色紙に描いたリンゴの絵がいまだに実家に飾ってあるのだが、いまだに我ながらいい絵だと思う(笑)。色はあせてしまったがそれがなかなかいい味なのだ。母は「色をさし直せ」というのではあるが。いま思うと、その絵こそが同級生が目を見張ったものだっかたもしれない。
レタリングといって文字を装飾するのに凝ったこともあるし、国高祭(高校の文化祭)で使うポスターを作ったこともある。
大学に行くとき、入れたかどうかは別にして、芸術系大学の最高峰・東京芸術大学を受けようかと思ったこともある。
でも、基本的にはその頃最も好きなのがオーディオ関連だったこともあって、理系の学部・電子系の学科を志望していた。
ところが、上に書いたような中学時代の“ガリ勉”の反動か、高校ではまったくと言っていいほど勉強をしなかった。なんでもできた中ではあまり得意ではなく、ニガテ意識のあった数学はものの見事に急降下し、赤点の連続であった。それで理系志望というのもなにを考えているのかと思うが。
しかし、どういうわけだか好きだった英語は、勉強しなくてもそこそこの成績だった。同じような才能の集まる高校では、さすがに勉強しなくてもトップというわけにはいかなかったが。英語以外では、理系志望なのにできない中でも得意だったのは、なぜか現代国語、歴史、地理といった文系科目ばかりだった。それで理系志望という(ry
英語に至っては、予備校(代々木ゼミナール)に通い始めてからはすばらしい先生に巡り合ったこともあり、成績は再度急上昇し、英語だけなら東大でもなんでもござれ、の状態をアッサリ維持していた。偏差値はあり得ない80台だったしね。いまだに、あの代ゼミこそが最高の教育を受けた場所だと思っていたりする。
でも、それでも英語がほとんどしゃべれないってなぜ?(爆)
上に書いたような中学の時の僕を知っている同級生や先生は、僕が大学に入るのに結局三浪するとは夢にも思わなかったろう。中学時代は東大か東工大楽勝、と自分自身で思っていたし、まわりの誰もがあいつは必ずと思っていたから、自分が一番唖然としたが。
このころは僕は“至福の時”・・・いや“雌伏の時”を過ごしていたのだった。簡単に言えば“こそこそ人目を忍んで”生活していたんだね(笑)。そういう価値観だったのだ。
自分で何がしたいのかわからなくなっていた僕は、大学進学をあきらめてデザインの専門学校に行こうか、と考えて願書をもらいにいったこともあった。
しかし、その後なんとかいくつかの理工系の大学(学部)に合格した僕は、その頃一番好きだった電子系の学科(早稲田は落ちたが上智に受かっていた)に行けばよかったのだが、またもや親の言うことを聞く“いい子ちゃん”ぶりを発揮し、上智を蹴って一番偏差値の高かった(しかし学科自体にはまるで興味がなかった第2志望の)早稲田大学理工学部・金属工学科(卒業時に材料工学科と改名)を選んでしまった。
この手の地味な学科にはそのまま研究職につく人も多く、大学院まで行く人が少なくないのだが(どちらかといえば院まで行く人の方が多いかも)、教授ともソリが合わずとにかく早くそこからいなくなりたかった僕は、必須の単位だけは速攻で取得し終え(4年時には卒論以外なにもとらなくていい状態だった)、高校時代から好きだったパイオニアに首尾よく入社した。
しかし不運?は続くもので、その頃はバブルの真っ最中、自分の好きなところに配属されるなんてあり得ず、卒業学科のみが考慮され、パイオニアの中でもっとも地味な研究部門である「総合研究所(総研)」というところに配属された。
もともとその地元にいらっしゃる方には申し訳ないが、そこは埼玉県の奥の方、鶴ケ島というところにあり、その場所を知ったとき“島流し”になった気分になったものだ。なにせ、本社での入社式直後の新人研修の最終日に配属先が告げられたとき、新入社員の誰もが所在地はおろか総研という組織も知らなかったんだから。
オーディオの商品企画をやりたかった(しかやりたくなかった)僕は、東京・目黒の本社勤務を夢見ていたのである。
ちなみに、この新人研修の際、「一日英語デー」という“英語しかしゃべっちゃいけない”という日があって、内定が決まったときに全員が受けた TOEIC の成績でグループ分けされることになった。
理系人間(ご存知と思うが、英語の苦手な人がどちらかというと多い)としては抜群に(笑)英語のできた僕は、TOEICの成績がすでに入社前に、同社が「海外で働く、もしくは海外とやり取りがある」部署で働くために必要と定めている点数を軽くクリアしていた。たしかその設定は600数十点で、僕は700点台だったと思うが。
で、属したグループがすごかった。僕ともうふたりの理系人間を除いた6、7人ほどの人間が、なんと帰国子女だったり、国際基督教大学(ICU)という本格的な英語教育をする大学出身だったり、日本語が英語よりヘタと言われているという人だったり(彼女は美人だったし、その後社長秘書になった)、はたまたイタリア在住が長く英語よりイタリア語が得意なヤツだったり・・・。まさしくそのグループでは3人を除いて完璧ネイティブレベルのイングリッシュが一日中飛び交っていたのであった。唖然、ぼう然。ショックというかなんというか。
ちなみにそのイタリア語の得意な彼は、その後希望通りイタリア支社勤務となり、フェラーリの渉外担当にもなった。当時、パイオニアは結構長いことフェラーリF1のスポンサーをやっていたのである。サイドポンツーンに青地に白い昔のカッコいいロゴ(いまのはダサ!)が張ってあったのを覚えている方も多いだろう。
そのスポンサー契約が最後となった年に、僕は彼に呼ばれてミラノの彼の家に泊り、モンツァのイタリアGPに行き(シューマッハのサインもゲット!)、そのあとマラネロ(フェラーリ本社がある町)やイモラ(セナが亡くなったサーキット)を見てきたんだが、それはそれは素晴らしい旅だったなぁ。
(スゴイ脱線ですが)で、いまだに大好きなパイオニアではあるが、仕事自体はやはりあまり好きになれず(ちなみに、「録画できるビデオディスクレコーダー」といういまの DVD レコーダーのおばけ・前身みたいなものの開発を手がけていた)、3年ほどで辞めて、ある人のつてを頼ってあるクルマ関連の会社に入ることとなった。
そこで、Apple の Macintosh に出会ったのである。まさに衝撃の出会い(笑)。
Mac にほれこんだ僕は、仕事の合間にデザイン学校(というか、Macのデザインツールの基本的な使い方を学ぶ学校)に通い、そこでも卒業制作でセンスと才能とをいかんなく発揮した。
で、それに至る詳細はここでは書けないが(笑)、ほどなくして茨城県の古河市というところの観光案内パンフレットや観光マップの制作を個人で一手に受注したのである。すげー(爆)。いまとなっては内容からするとエラク安く請け負ったとは思うが、初めての仕事で数十万円を手にした時は本当にうれしかったなー。
もう時効だろうから書くけど(笑)、その会社勤めの合間に内職していたわけである。あ、会社でやってたのではないよ。家にかえって夜なべして(笑)。若かったし、あのときが一番パワーがあったかもなぁ。
で、いろいろあってその会社もやめて独立し(いちおう円満退社ですー)、今に至るのであった。
#事情でここらへんの数年はメチャクチャ端折ります。
と、なんで長々と書いてきたかと言うと、別にくだらない自慢話(になるほどでもないが)をしたいわけではなく、自分自身でちょっと振り返ってみたかったから。だいいち、こんなダラダラとした文章、さすがにちゃんと一語一句読んでくれた人はいないでしょう。いたら心から感謝です。読んでくださってありがとう。
自分自身でもこんな感じであるから、紆余曲折を経てデザインの仕事につくことになった、というのは感慨深いものがあったりする。ママの森幼稚園からの美術教育が直結しているわけではないが、結局はそういうことにつながったのだから。
もしパイオニアで最初から商品企画の仕事についていたら、もしかしたらいまだにブツブツ不満は言いつつも、もしかしたら続けていたかな、とふと思うこともある。いや、やはりこうなっていたかもしれないが。そもそも会社勤め自体が性に合わんし。
“三つ子の魂百まで”とはよく言ったものだが、結局、まだ純真で物心ついた頃に好きだったものというのは、自分が心から好きなものなのだろう。
こうやって自分で自分の歩みをまとめるように書いてきて、その“事実”をあらためて再認識しているところだ。
先生のように、好きなもの(陶芸)だけに没頭できた人生というのはある意味一番幸せだ。
そういう僕自身も、好きなものを仕事にできている幸せ者であるはずなのに、それを十分に生かしきっていないな、と思う。それどころか、うまく行かないと苦痛に思ったりしているのだから情けないというかなんというか・・・。感謝しなければ。
小平二先生、本当にありがとうございました。どうか安らかにお眠りください。
以下、ちょっと人となりがわかる、ご出身地(新潟県佐渡)版の新聞記事です。
佐渡出身の人間国宝の陶芸家、三浦小平二さん(73)が死去した。突然の悲報に6日、島内では「驚いた」「佐渡の宝だった」と衝撃が広がった。21日に島内でのお別れの会が催される。
三浦さんは東京都国立市在住。佐渡市相川羽田町の生家の陶房「常山(じょうざん)小平(こへい)窯」は電話が鳴り続けた。急逝に驚く人ばかりという。訃報(ふほう)を張り出し、焼香台を置いた。
三浦さんは重要無形文化財保持者(人間国宝)になった97年に、旧相川町の名誉町民に選ばれている。訪れた女性(62)は「心が広く、包み込んでくれるような人でした。佐渡への愛着が強かった」と手を合わせた。
9月26日から1日まで、新潟市内のデパートで「作陶50年」の個展が開かれた。28日から1泊で佐渡に帰り、墓参りをすませたという。
佐渡在住の陶芸家で人間国宝の伊藤赤水さん(65)は「少し疲れた様子でしたが、元気だとお見受けしたのに」と驚き、「大切な人をあまりにも早く亡くし、残念です」と惜しんだ。
高野宏一郎市長は「三浦先生は佐渡のために力になりたい、と話されていた。非常に残念です」との談話を出した。
お別れの会は、21日午前10時から佐渡市高瀬の「ホテルめおと」で。実行委員会主催。
投稿者 Shin : 2006年10月17日 23:31
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コメント
全部読みましたよ。暇ですから。
shinさんの歴史が見れて、面白かったですよ。
投稿者 にぃちゃん : 2006年10月18日 21:53
全部読みました~^^
shin兄の歴史って、すっごい!
やはり小さい頃の純粋な気持ちで好きだったものって。。。
大人になってからの影響がすごいんだな~って^^
と、なると。。。
ふーまは1歳からF1見続けてるので、もしかすると~
と、思わずにいられません(笑)
今のshin兄の仕事の基礎を作ってくれた先生が亡くなられた
ことは、本当に残念ですね。。。
先生のご冥福をお祈りいたします。
<にいちゃん
おひさ^^
元気にしてますか~?
あたしはあれから仕事と家事と育児とがんばってますよん♪
投稿者 みかりん : 2006年10月19日 19:54

